クラシックの反省

お墨付きより自分の耳で?

 その理由は、19世紀に主導権を得た平坦な奏法の流派の末裔が、現在では世界中にはびこってしまっているからです。それもコンクールから音楽大学から義務教育から、あらゆる場所に於いて実権を握り、平坦さに気付かぬ者同士が平坦な奏法を教え学び、「これが正統派です」と伝承を続けているからです。

 

当然の事ながら、ここへ波打つ奏法の流派を予感させる演奏家が現われたら、皆で寄ってたかって酷評し叩き潰す仕組みが確かにあるからです。外部からの問題提起に対し、「
私達は何とも思っていないのだから、このまま放っておいて下さい
」と拒絶を示す傾向さえあります。

 

従って、クラシック界の人に本気で問題意識を持たせたる為にも、ポピュラー界等の外部の人には団結して、「退屈な演奏」と「感動する演奏」を聴き分ける習慣を持って頂きたいのです。その結果、感動する演奏であれば聴きに行ってあげれば良いし、退屈な演奏であれば「あなた方の内輪で演奏して下さい。公共の場に演奏に来るのは止めて下さい」との意思表示をすれば良いのです。

 

何故なら彼等彼女等だって、お客様が全く来なくなれば、いずれは「演奏が退屈だからではないか」と気が付く時が来るからです。時には「我々の演奏を退屈に感じるのは、音楽が分かっていないからだ」と抵抗されますが、そんな言葉に騙されてはなりません。

 

これは着うたフルに於いても同様で、そのクラシック音楽が退屈であれば、何も有り難くダウンロードさせて頂く必要はないのです。

 

 大体、官公庁の意識にも問題があり、軽音楽バンドが音響を増幅して路上ライブをすれば取り締まるのに、何故クラシックのお嬢様がロビーで退屈極まりない凡庸な演奏を延々と続けるのはお咎めなしなのでしょうか?多分、「彼女達は申請しての演奏だし、音量的に全く気にならないから」でしょうが…

 

 やはり、聴き手の側がお上のお墨付きに振り回されず、自身の本能に訴えかけて来る真に才能ある演奏を見抜く、その意識変革がクラシック音楽に対しても求められる、今後はそんな時代になって行くのではないでしょうか?

 

 

記者:ヒビキ カオル(響 馨)

 


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